たけしの忙中閑話

レイ

レイ・チャールズ。誰もが知っているあの盲目のピアニスト兼シンガーである。「わが心のジョージア」というあまりにも有名な歌は自分も知っていたが、これまで氏の音楽をじっくり聞いたことはなかった。つい先日、知人から氏を追悼するデュエット曲ばかりのCDをもらってしみじみと聞いてみたが、なるほど、この一枚を聞いただけでもいかに偉大なアーティストであったかを思い知らされる。

レイ・チャールズはアメリカはジョージア州に生まれ、最極貧の家庭に育った。本人の述懐によると「自分たちの下には地面しかなかった」というほどの貧しさだったという。さらに不幸なことに彼は幼くして失明するに至る。氏の人生を題材にした映画「レイ」も見てみたが、そこには幼い彼が徐々に視力を失っていく状況が克明に描かれている。レイは目が見えなくなってから必死に母親を追いかけようとする。しかし、やがて一人で生きていかなければいけない我が子に自立の精神を植えつけるためだろう。母親は涙ながらにそのレイを突き放す。そして、宙を手でまさぐりながらまさに暗中を模索する我が子のいたいけな様子を部屋の隅からじっと見つめているシーンがある。胸がしめつけられて思わず涙腺が緩む。

レイは集落の中にあった教会でゴスペルを聞きながら育った。ピアノもそのときに覚えたようだ。後にレイはゴスペルというある意味、黒人社会においては極めて神聖な存在である鎮魂歌を現代的にアレンジしてみせるのであったが、そのこと自体が甚だ不敬な行為だとして猛反発を受けることになる。しかし、結果的にはゴスペルとリズムアンドブルースを融合させたそのことが、のちにレイの偉大なミュージシャンとしての地位を確立することにつながっていくのである。

当時の南部、ジョージアは言うまでもなく、黒人差別のメッカのようなところである。隔離された被差別集落の最下層の家庭に生れ落ち、その上、幼くして視力までも失ってしまう。それだけではない。視力を失う以前には一緒に遊んでいた弟を目の前で溺死させるという不幸な事件が起こり、そのことがレイに生涯にわたって消えない重いトラウマを残していく。なんとも我々には想像すらできない身の上であるが、そこからやがて全世界から敬愛される「偉大なアーティスト」へと上りつめていくまでの氏の人生のドラマは多くの感動と教訓を我々に与えてくれている。

友人からもらったCDはDVDとセットになっていたが、その中にはレイと競演した数々のミュージシャンへのインタビューとレイ自身の貴重なインタビューが収められている。中でも印象に残ったのはエルトン・ジョンのものだった。「こういう人と歌っていると自分まで歌がうまくなるんだ」と氏は述べている。レイとのデュエット曲はエルトン自身のナンバーだったが、そのサビの部分をレイが歌っているのを横で聞いていて氏は胸が熱くなったという。実際、DVDにはそのときのシーンが納められているが、演奏が終わったときにエルトンは涙声で礼を述べる。「どうもありがとうございました。とても光栄でした。」とエルトンは盲目のレイの背中を撫ぜながら丁重に言った。レイを尊敬してやまないその気持ちが画面をとおして実によく伝わってくる。

レイはインタビューの中で非常に興味深いことを言っている。「自分たちが楽器を越えることはない。楽器にはどんな楽器にも大きな力が込められていて、自分たちはその一部分を引き出せるだけである。」「自分はいつも心から歌ってきた。楽しい曲は楽しいように、悲しい曲は心から悲しそうに。。。。ただ、それだけだ。それが自分の生き方なのさ。」一度見たきりだから、うろ覚えでおそらく正確ではないと思う。しかし、レイはたしかにそんなことを言っていた。なんでもない言葉のようだが、自分にはそれぞれ至言だと思えてならない。

盲目のレイにとって楽器はすぐさま自分に応えてくれる唯一のものであったに違いない。当たり前のことだが、鍵盤に触れば確実に音が出る。すぐに反応があり、それを視覚に頼らずとも確かめることができる。その時の喜びはきっと健常者の比較ではないだろう。レイが活躍したあと、スティービー・ワンダーなどの盲目のミュージシャンが続々と登場してくるが、おそらく彼らもそれぞれの楽器にめぐり合い、歌うことを覚え、音楽によって自己を表現できることの喜びを知って、持てる才能をさらに研ぎ澄ましていったに違いない。

「楽器を越えることはできない。応えてくれるだけだ。」とレイが言う意味はいわゆる「謙虚」というのとは少し違っている。「楽器は自分の心に反応してくれるだけだ。問題は自分の心だ。どんな音になって返ってくるかは自分の心の在りよう次第だ。」おそらくそういう意味なのだと思う。「心から歌うことが大事だ」というのも同じ文脈の言葉だろう。どんな悲しそうな表情も楽しそうな素振りもレイは自分の目で確かめることはできないのである。確かめられるのは、自分の心の中がしっかりと「音」に変わっているかという、そのことだけである。

視覚を欠いている人にとって唯一頼れるものは「音」である。それしかないから逆にごまかしが効かないのだろう。だからレイのような人は「音」の表情にはすこぶる敏感で、それだけに極めて厳格であるに違いない。嘘の音は視覚に惑わされる健常者にはわからなくても、彼らにはすぐにわかる。だからこそ心をまっすぐに込めなければならない。そうでない音は響かず、届かず、感動も呼ばない。きっとそういうことなのだろう。

言うまでもないことだが、我々は日常の生活において、あるいは仕事の場において、とめどなく受容と表現という行為を繰り返している。毎日が書き、読み、聞き、話し、見ることの連続だ。もちろん、その過程で悲しみもし、喜びもし、怒りもする。しかし、なんでも可能であるがゆえに、そして忙しくそれをこなしていかなければならないがために、いちいちの行為に心を込めていくということがどうしてもおざなりになりがちである。政治家ともなれば聴衆の前で多くのスピーチをすることが日常となるが、吐いた言葉に魂が籠もっているかどうかは健常者よりもむしろ視覚障害者のほうが正確に聞き分けているのだろう。

生涯を通じて暗闇の中でじっと「音」と向き合い、「心」と向き合い、そこにありのままの自分を表現し続けてきた人、レイ・チャールズ。そしてこれからもおそらくは未来永劫に人々から愛されていくであろう最高の「音」を我々に残していってくれた人、レイ・チャールズ。今は亡きこの偉大なミュージシャンに心からの敬意を表したいと思う。

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