たけしの忙中閑話

私の小泉純一郎論

選挙が終わって10日ばかりが経った。あの「喧騒」が嘘だったかのように、町も人も連休の真っ只中にある。久々に自分の時間を少しだけ持てるようになってみると、はて、これまではこういう時にいったい何をしていたのだろうか、と少々困惑してしまう。疲れがたまっているせいもあるが、ただボォっとするだけで自分の時間の使い道が思い出せない。そうだ、犬の散歩にも行ってなかったな、ふむ、本も1ページも読んでなかった、音楽もしばらく聞いていなかったし、新聞はさっと見出しに目を通すだけだった、テレビのニュースですら最初から最後まで見届けたことはなかった、などとこの一ヶ月間を振り返りながら、徐々にリハビリに努めつつ、今回の「大騒動」の主役を演じた小泉純一郎という政治家についてあらためて考えている。

衆議院選挙というのはやってみるたびに「こりゃあ、おおごとだな。」とつくづく思う。なにしろ、かかわってくれる人の数、投票してくれる人の数、それぞれ膨大だからである。毎回、選挙事務所に帰ってくるたびに手伝いの人の数が増えているのだが、申し訳ないことながら、全員のお名前を覚えている暇もない。宣伝カーでの遊説にしろ、演説会にしろ、それぞれ大変な労力を伴ってはじめて成り立つ仕業なのであるが、候補者となってしまってからはとにかく作られたスケジュールを必死にこなしていくだけで、どうしてこれほどの人が駆けつけてくれているのか、いちいち説明を聞いて納得している時間も無い。

それだけに候補者としての責任はすこぶる重大で、これだけの好意と善意を決して無駄にするわけにはいかない、と日を追うごとにこちらも気合いが入っていく。選挙戦が始まれば早朝から深夜まで分刻みのスケジュールをこなしていくのだが、その間に、一日で数千人の人と握手を交わすことになる。まぁ、これだけでも尋常なことではない。選挙が終わるといつも利き手の右の指が左の指の1.5倍くらいに膨れ上がり、しばらくの間、筋肉痛の状態が続くのだが、この痛みがあってこその当選なのだと、夜な夜なハンドクリームで痛んだ手を文字通り「手入れ」しながら、多くの支援に感謝しているところである。

今回、いただいた票は12万7000を上回っていたが、これだけの人と一堂に会したこともなければ、この先、そういう機会もきっとあるはずはないと思うと、ある意味、有難さを通り越して恐ろしい感じさえする。有権者一人一人の投票動機はむろんさまざまであるだろう。しかし、自分はこれまで当落を繰り返した経験から、「民の声は天の声」であるといつも感じてきた。人々が束になってかかれば、必ず一枚の澄み切った鏡のように正確にすべてを写しだすことができる。したがって「正しければ勝ち、そうでなければ負ける」。選挙を技術的に評価するとするならばいろいろな論評が可能なのだろうが、自分としてはいつもすっきりとそれだけを思うように努めてきた。

今回の勝因を冷静に分析すれば、自分の努力は三分の一、支援者の力が同じく三分の一、残りの三分の一は小泉さんの「決意の力」によるものだろう。全国の結果を見てみると都会地においてはとりわけその小泉パワーが炸裂している。小選挙区を基本とした現行の選挙制度においては、候補者に対する評価もさることながら、リーダーに対する評価が極めて大きな要素を占めたからだ。言うまでもなく衆議院選挙の本意は「政権選択」にある。二大政党が定着しつつある今、これはそのまま「総理」を選ぶ選挙となる。総理候補の政策とパーソナリティーが勝敗を決する最大の要因だと言っていい。今回はまさしくそれゆえに勝利できた。自分はもとより誰しも自分の力であると錯覚しないほうがいい。今回は与党が地滑り的に勝ったが、一歩間違えば地滑り的な負けにつながる制度でもある。決して喜んでいる場合ではない。

それにしても、と思う。小泉さんがどうしてここまで国民の心をひきつけることができたのか。。。思うにそれは小泉さんによって久方ぶりに「政治のダイナミズム」というものを感じたからではないか。理想や情念の力によって現状を打破し、乗り越えていく力こそ政治の持つ本来の力なのであるが、通常はしがらみに絡めとられてそれが発揮できない状態のほうが「常の姿」であるとみんながあきらめかかっていた。そこへ現れた稀代の変人総理が小泉さんである。小泉さんは登場以来、自民党の常識も政界の常識もともに覆し続けてきた。今回はまさにそのきわめつけで「まさかっ!」と思われたある意味で「非常識」な選挙を強引にやってのけた。一人の政治家の強固な意志が日本の政治全体を突き動かしつつある現実に、国民は驚き、次に共感し、そして力を貸した。そういうことではなかったか。。。。

考えてみれば最大の争点となった「郵政民営化」は実は説明するに極めて骨の折れるテーマだった。民営化の真の目的を説明するにも、その基本的な設計を説明するにも相当の時間と技能を要する。小生、比較的「話はわかりやすい」と言ってもらえるほうだったが、今回は正直、実に苦労した。いきおい、必要以上に説明を簡略化し、結論だけを繰り返し訴えるようなことになってしまったが、それを納得してもらったというよりも、有権者の大半は「小泉さんなら間違いないだろう。なにしろ覚悟を決めてやろうとしている。この際はやらせてみよう」という直感的な判断によって賛成投票したということなのだと思う。

しかし、それが政治の持つ本来の力なのだとあらためて実感するのである。現状を維持するだけなら官僚機構だけで十分で政治の力は要らない。現状を打破するエネルギーを持ち得てはじめて政治は政治足りうる。極論すれば、政治とは「法律を超えていく力」なのである。日本は法治国家であるのだからして、なにも「無法」や「超法規」ということを言っているのではない。法律によって固定された現状を法改正や新規の立法によって作り変えていく力こそが政治の持つべき力であり、果たすべき役割なのだという当たり前のことを言っているに過ぎないのだが、変えていくべき現状がやっかいであればあるほどその作業には壮絶なエネルギーを要することになる。そういう意味で言うと「郵政改革」は「入り口」というよりもむしろ「序の口」と言ったほうが適切なのかもしれない。

再開された国会はまずその「序の口」から片付けることになるが、問題はそのあとだ。難易度は徐々に、しかも確実に上がっていくことになる。今回の「旋風」で運良く当選を果たした「小泉チルドレン」たちのみならず、院の三分の二を占めるに至った与党議員全員が次第に与えられた使命の重大かつ困難である事に気がついていくことになる。そもそも全員が拍手喝采する改革などはない。改革を進めれば進めるほど「小さな不満」がつもりつもってやがては「大きなマグマ」を形成するに至るだろう。一般に予想されているように「改革ができないことへの不満」よりも「改革の痛みに対する憤激」のほうがやがて政権を痛打する可能性が高い。しかし、それがこの国の国益と国民の中長期の幸福につながると信じるならば、「もって瞑すべし」と構えておくほかはないのだろう。

今回の選挙によって、小泉純一郎という政治家は間違いなく歴史に刻まれる総理大臣となった。そういう政治家を間近に直視できる経験を持ちえたことは同じ道を歩む者として実に幸福なことだと感じている。小泉さんは確かに自民党を変えてしまいつつある。しかも、公約どおり「ぶっ壊す」という作業を通じてだ。尋常ならざるリーダーシップと言っていい。いつの日か、天下国家の大事を成そうと志す者であれば、その「非情」とも評された厳しさをも含めて「範」として見習うべき政治家であることは疑いがない。

そう言えばいつだったか、小泉総理と若手議員の懇談会の席上、同僚議員が「総理、ここにいる岩屋さんは小泉さんを見て総理大臣になりたくなった、と言ってますよ。」などと突然に言い出したことがある。小生、思わず赤面してしまったが、総理はにっこり笑って「ハハハ。そりゃあ、いいことだ。しかし、変人と呼ばれることは覚悟しなきゃいけないな。」と最後には真顔になってそう言った。「自分を捨て切り、命をかける覚悟なくしてはとてもやれるもんじゃないぞ。」ということを言われたのだと私は受け止めた。しかし、政治家としてその境地に達し得たとするならば、まさそれこそが政治家としての「本懐」なのであろう。政治家・小泉純一郎はその姿をまざまざと我々に見せつけてくれたという意味で、現在の政界においてしっかと屹立している存在である。それが小生のまぎれもない「小泉純一郎論」である。

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