たけしの忙中閑話

津和野

連休中に家内と二人で一日の休みをとり、折からの高速道路割引き制度を利用して遠出をしてみようということになった。当初、家内のほうはずいぶんと張り切っていて「ねぇ、瀬戸大橋をわたって四国まで行きましょうよ!」などと言っていたのだが、いくら片道の高速料金が1000円で済むとはいっても、それでは日帰りコースとしてはあまりに遠過ぎるということになり、急遽、行き先を島根県津和野町へと変更したのだった。

「津和野」という町に行ってみたかったのにはわけがある。実はこの町は小生の両親にとっては、思い出がたくさん詰まった町なのである。

以前にも紹介したことがあるが、小生の父は医者だった。鹿児島医学専門学校を卒業した父は九州大学の医局に入ったのだが、当時の医局の権威と言えば大変なものだったらしく、今のように若い医師が勝手に好きなところで研修するということなどは到底ありえず、医局長の命ずる派遣先に有無を言わせず行かされていたらしい。で、父の命ぜられた派遣先が津和野町の病院だったというわけだ。

「山陰の小京都」とも言われるこの町は1600年代から続いていた亀井家11代の城下町として栄えた町である。水路に錦鯉が優雅に泳いでいることが有名な、いまなお城下町の風情を湛えた実に美しい町並みを誇っている。現在の衆議院議員 亀井久興氏は藩主の末裔であり、最近は氏のお嬢さんも参議院議員として活躍している。いわば、「お殿様」と「お姫様」が国会へ出ているようなものだが、なるほど、津和野の街中には同僚の自民党議員のポスターはほとんど見当たらず、現在は「国民新党」に所属しておられる亀井父娘のツーショットのポスターばかりが目立っていた。

話が横道に逸れてしまったが、主題は我が両親と津和野との関係である。実は母は父と結婚する前は九大病院で父の患者だった。母は当時でいう「胸病み」、つまりは結核を患っており、今では信じられないことではあるが、かなり病弱な文学少女だったのだそうな。父と母は医師と患者として出会い、やがて愛を育むことになるのだが、双方の親から反対されていたこともあり、なかなか結婚に踏み切れずにいた。

うちの祖父母は、母が病弱であることを特に気にしたらしい。「わざわざそんな身体の弱い女子をもらうことはない。第一、丈夫な子ができやしない」というのが最大の反対理由だったと聞く。今でこそ「結核」はあまり重篤な病気だとは思われてはいないが、当時はやはり敬遠されるくらいのやっかいな病気だったのだろう。祖父母の気持ちもわからないではないが、結果、小生のような「健康優良児」が生まれたのだからして、杞憂に過ぎなかったということになる。

そういうわけで、父と母の恋が頓挫しかかっていた矢先、母のほうに別の縁談が持ち上がった。お相手はやはり医師で、専門は産婦人科だったらしいが、なんでも、母の女学校時代の恩師が母がいつまでも嫁にいかないのを心配して紹介してくれたのだそうだ。お見合いはしてみたものの、母はあまり気に入らなかったようだが、先方は大いに乗り気になり、思いもよらずとんとんと話が進んだようだ。しかも、その間、父のほうは忙しいのもあってか、うんもすんもなく愚図愚図していたらしく、そんなこんなでとうとう母のほうも痺れを切らし、「父とは縁がなかったのだ」と、ついに嫁に行く覚悟を決めたのだという。

そこで、母は父に手紙を書いた。「お見合いをした方と結婚します」と。言ってみれば「お別れの手紙」だ。

さぁ、ここから先が実にドラマティックな展開となる。その手紙を受け取った父はすぐに母に電報を打った。「ソノ ケッコン チョット マッタ」。ウウム、我が父ながら、なかなか泣かせる文句ではないか。

ダスティン・ホフマンの「卒業」ではないが、その電報を手にした母は瞬く間に婚約破棄を決意したらしい。あとは一刻も早く父に会いに行こうと、親戚のおばさんにお金を借り、とるものもとりあえず夜行列車に飛び乗り、一路、津和野を目指したのだという。時刻表もろくに調べずに慌てて列車に乗り込んだのだそうで、その列車は小倉で駅留めとなり、仕方がないので駅員さんに頼み込んで貨物列車の機関室に乗せてもらってようやくにして津和野へ辿り着いたのだそうな。機関士たちは母の様子を見てなんとなく事情を察したのであろう、とても優しくしてくれたのだそうだが、母のほうは「本当はとても怖かったのよ」などと述懐している。

もちろん、事前に連絡を受けていた父は津和野の駅で一人、母の到着をいまかいまかと待ちわびていたらしい。その時の再会の様子がいかであったのか、できることなら記録映画かなんかで見てみたいところだが、そこは想像に任せるしかない。いずれにしても劇的な再会であったろう。今回、その当時とさほど変わってはいないであろう津和野の駅頭に立ってみて、「ああ、自分がこの世に生を受ける出発点はここだったのか」と不思議な感慨に襲われた。

そんなわけで、母はそれ以降しばらくの間、津和野の町に滞在し、父との愛を確かめ合ったのだそうな。病弱だったはずの娘がそこまでの勇気を奮って「既成事実」を作ったのであるからして、ついには「やむなし」ということになって双方の両親もついに折れ、やがて二人はめでたくゴールインすることになった。

そういうわけで、父と母にとってはこの「津和野」が忘れられない町となっている。子どもの頃から断片的にそういう話を聞かされていたものだから、チャンスがあったらぜひ行ってみたいと以前から思っていたのだが、麻生政権の政策のお陰で(笑)、それがとうとう実現したわけだ。津和野を訪ねることができたら、ほんのすこしでもいいから今は亡き父の若かりし頃の面影に思いを馳せてみることができたらなぁ、前々からそんな風に思っていた。

津和野が生んだ偉人といえば、哲学者の西周や文学者の森鴎外がいる。森家はもともと藩主亀井家の御殿医の家系であったらしい。今は生家の隣にモダンな景観の「森鴎外記念館」が建っているのだが、父がいた頃はどうだったのだろう。父のことだ。少なくともすぐに鴎外の生家を訪ね、墓参りくらいはしたであろう。いずれにしても偉大な医師であり文学者でもあった鴎外のふるさとで医師としての研修に励んだ日々は父にとって志を養うにふさわしい時間であったろうと思う。

その当時、父はあてがわれた官舎のほうにはあまり近寄らず、もっぱら「ささや」さんというこの町の老舗の呉服屋さんにほとんど間借りしているような生活だったらしい。そこの女将さんには父も母もずいぶんとかわいがってもらったそうだ。今は息子さんが跡を継いでおられるらしく、朝、家を出るとき、母からは「津和野へ行くんだったら、ぜひとも、ささやさんに行ってご挨拶してきて欲しい」と言われていた。

「ささや」は観光客が往来する賑やかな商店街のど真ん中にあり、地域でも有名な店らしく、道を聞いたらすぐに辿り着いた。ちょうど店の前に車が停まっていて、ご主人らしい人が出入りしていたので、「あのぉ、ささやさんでしょうか?」と聞くと、小生の顔を見た途端に「おぉ!貴方は!」という反応が返ってきた。小生はどちらかというと母似で父とはあまり似てないと思うのだが、他人様から見るとDNAの痕跡は明らかなのであろう。「えぇ、別府の岩屋です」と言うとさらに相好を崩され、突然の珍客にもかかわらず、実に丁重に対応していただいた。

ご主人は、父が存命中はなんども別府に遊びにこられたのだという。小生も子どもの頃に会っていたのかもしれぬ。今では京都、広島、東京にも事業を展開しておられ、津和野にいる時間は月のうちでも僅かしかないのだそうだ。ご迷惑をかけてもいけないと思って事前に連絡していなかったので、お会いできただけでも幸いだった。これもまた父の導きであろうか。母の様子や母からの伝言を伝えたりしたあと、名刺を交換し、再会を約し別れたのだったが、ここでも父の痕跡に触れることができたことは有り難かった。

帰りに、日本酒が好きな母のために土地の地酒と銘菓、そして、名物の「葉わさび」を土産に購入した。家にに辿り着いたのは夜も遅かったので、母はもう寝ていた。「津和野の夢でも見ていてくれればいいな」。僕は、翌朝、母が起き出してきたらすぐにわかるようにと思って、テーブルの上にお土産をきれいに並べて置いたのだった。
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