たけしの忙中閑話

下野

考えてみるとこうやってものを書くのは久しぶりのこどだ。

なにしろ、選挙になると、新聞も読まなければ、テレビも見ないという日々となる。パソコンに触る時間もない。ましてやゆっくりとキーボードを叩いて文章をひねるなどということなど到底あり得ない。だから、選挙の前後に毎回、たくさんの激励や祝意、時にはご批判のメールをいただくのだが、いつもレスポンスが遅れて失敬をしてしまう。

そんなわけで、嘘だと思われるかもしれないが、これまで自分は自分の政見放送を一度も見たことがない。見たくないのではない(特に見たいわけでもないが)。見る時間がないのだ。あれだけ多くの人に見てもらいたいと願っているにもかかわらず、だ。

してみると、選挙期間中の候補者というのは、まったくといっていいほど世間から隔絶されているようなことになる。それでいながら、毎日、朝から晩までマイクを握って「世間の有り様」を「世間の皆様」に訴えているのだからして、実に不思議な話だ。

毎回のことだが、選挙後に「本調子」を取り戻すまで一定の期間を要する。まず、体力を相当に消耗しているから、これを回復するのにかなりの時間がかかる。二週間くらいはじっとしているとすぐに眠たくなる。疲れが溜まっていて日課の朝のウォーキングもなかなか再開できない。してみると、ウォーキングなどというものは日頃は「体力づくり」のためにやっているのだと思い込んでいるが、実のところは体力が残っているからこそできるものだということに気がつく。

モノを書くのも同様だ。まず、頭の中が容易に「書きモード」に戻らない。一ヶ月間ほど、朝から晩までしゃべっている状態が続くので、頭が文章を書く仕様になかなか戻らないのだ。ことほどさようにしゃべることと書くこととは違う。自分にとって「しゃべり」は放電であり、「書く」のは充電だ。充電を長くやらないと次第に頭の中は空っぽになって放電がままならなくなる。

選挙の結果、当選はできたものの、今度は野党になった。かつて、落選中に野党という立場を経験したことはあったが、現職議員としては初めてのことだ。頭の切り替えが必要だ。簡単に言えば、「守り」と「攻め」の違い。この違いは大きい。「質問」ひとつとってみてもそうだ。「大臣に気持ちよく答弁させる」のか、「大臣を立ち往生させる」のか。天と地ほどの開きがある。

「立ち往生」させるほどに攻め込むためには当然、それなりの準備がなければならない。ひとつひとつの論点を資料なども駆使しながら多角的に論ずる能力が必要とされる。猛勉強が必要だ。ついこのあいだまで野党の立場にあった人たちはそれによって鍛えられたのであろう。「万年与党」ではそれを知らずして終わってしまう。いい機会だと思って取り組みたい。

野党に転落したあと、党内はなんとなく沈鬱な雰囲気に包まれている。中には、「最初の課題は議員のうつ病対策だ!」などと言う御仁もいる。それもそのはず。なにしろ、「与党」としてしか活動したことがない議員がほとんどなのだから。

しかし、これもまた「充電」の機会だと観念するしかない。考えてみれば、これまで与党議員としてのルーティーンに追われるばかりで、それでなんだか国会議員としていっぱしの仕事をしたようなつもりになっていたが、それでいて、じっくり一つのことを掘り下げて勉強したり、静かにものを考えたり、政治とは別の世界に生きる人とゆっくり話を交わすなんてことはほとんでできてこなかった。

選挙に負けると、決まって「国民の気持ちから離れていたからだ」と論評されるのが落ちだが、あくせくとルーティーンをこなしている間に、いつの間にか結果としてそういうことになっていたのだと思う。

「野に下る」とはよく言ったものだ。いま必要なことは、自身にとっても党にとっても、文字通り「野に下る」ことだろう。野に下り、草むらに分け入れば、そこに今まで見えなかったものも見えてこよう。そこに宴を張るもよし。日がな一日、読書にふけるもよし。そこから時折、山の頂上を見上げて、どうやってもう一度あそこまで行こうかとじっくりとアプローチを考える。

古典に曰く、「天下に道ある時は民とともにこれを行ない、天下に道なきときは一人これを行なう」。「失意泰然」のおもむきがなければならない。

いつの時代も在野の草莽の士が立ち上がって世の中を変えていく。今回の「下野」は決して悲運ではなく、むしろ幸運だ。そう受けとめて「在野の時」を充実させていきたいと思っている。
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