たけしの忙中閑話

辺境力

先頃、地元との行き帰りの飛行機の中で内田樹さんという人の書いた「日本辺境論(新潮新書)」という本を読んだのだが、これがすこぶる面白かった。こんな「論」だ。

「日本は大文明から見て辺境の地に位置している。したがって、古来より外来の文化を受容するところからすべてを始めてきた国だ。日本人の特性といったものもそこからできあがっている。これほど自国がどう見られているかということを常時、気にしている国民はいないし、本屋にはいつでも各種の『日本人論』が山ほど積まれているが、それらに書かれている事柄にそう大差はない。すなわち、日本人は『どうあるべきか』を自発的に考案するのではなく、『どう合わせるか』をいつも考える習性を持っているわけだ。しかし、それでいいのだ。それこそが日本の持つ底力なのだから。。。」

ざっと要約するとこんなことになるだろうか。斜め読みしただけだし、読解力にはさほど自信がないので、誤解や曲解もあるかもしれぬ。が、それほど的外れでないとすれば、この論はかなりの確度で真実を言い当てているという気がしたのだ。

ここでいう「大文明」とは、言うまでもなく「中国」を指している。いや、「中華」と言うべきか。いずれにせよ、かの地から見れば日本列島などというのは、大陸の先に浮かんだ小島に過ぎない。「中華思想」とは、言うまでもなく、「己が世界の中心であって、そこから離れれば離れるほど文明から遠ざかり野蛮に近づいていく」という世界観であるが、実際、四大文明が世界を覆っていた時代の「東洋」はまさにそのとおりであっただろう。

ちなみに中国大陸で成立した過去の王朝名は全部、「一文字」である。殷、周、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清、、、学校で習ったとおりだ。ところが、中心部からだんだん遠ざかるにしたがって、国名が「二文字」になっていく。これは、「一文字王朝が正統なのであって、二文字国は属地であり、属国である」という思想であったに違いない。そうしてみると、「日本」という国名は我々としては相当に良き名のように思っているけれども、「中華」からこれを見た時には、明らかに下位に置いていたということだったろうし、当方にもその自覚があったということになる。

たしかに、我がほうの古代王朝は統治手法を外来の「高度文明」に頼るしかなかった。それだけではない。文字、農耕、建築、あるいは宗教に至るまで、大陸発の文化、ないしはそれらを加工したものによって成り立ってきた。「神道」だけは固有のアニミズムから発生したオリジナルなのではないかと思われるけれども、それとて定かではない。ともあれ、宿命的に大文明の「辺境」に位置した我が国の文明が、ことごとく外来文化の「受容」から始まったことは確かだろう。

それならば朝鮮文明とて同じことなのだが、当方との最大の違いは、「半島」が「大文明」と陸続きであったことだ。したがって、「半島」は我がほうとは比較にならないほどの極めて大きな強制力を「大文明」から受けてきたはずだ。それはおそらく抗し難いものであったろうし、勝手に修正、加工したりすることなど憚られたろう。一方、我がほうは、「大文明」からは「海洋」を隔てて位置していた。今の時代ならいざしらず、当時の技術ではこれは簡単に越え難い。結果的にはこれが幸いしたわけだ。

著者によれば、「そこが辺境の気楽さ」なのだと言う。大文明に非礼をはたらけば、普通なら「すぐにも飛んで行ってこらしめてやる!」となるところを、海を越えて命がけの遠征をやらなくてはいかないとなるとそうもいかなくなる。だから、「日出るところの天子から日没するところの天子へ」などという無礼な挑発を受けた時も、間違いなく地団太を踏みはしただろうが、結局のところ無視してみせる以外に手はなかった。その間、こっちはじっくりと外来の文物を吟味し、取捨選択し、さらには修正加工することができたというわけだ。

別の本で読んだのだが、「日本語」というのは世界中に数千はあるといわれる言語の中でも極めて高度で完成度の高い言語なのだという。なるほど、文字一つとって見てもそうだ。読んで字のごとく外来文化に他ならぬ「漢字」を使用しつつも、「音読み」と「訓読み」を巧みに使い分け、さらには、そこから「ひらがな」と「カナ」という二種類の省略文字を発明し、さらにそれらを自在に組み合わせて「日本語」という精緻で繊細な世界を創り上げている。見事な芸当だと言うほかない。

他の事例まで上げていけばキリがないが、その後、我が国は千数百年の時の流れの中でこういった作業を不断に繰り返し、さらに江戸期には「鎖国」によってこれらの加工文明を自己流にじっくりと熟成する期間を持ち得た。その上、「文明開化」以降においては、これまた偉大な先人たちによって、今度は西洋からもたらされた新概念を、精緻な日本語を駆使してことごとく自国語に翻訳してしまうという離れ業をやってのけたのである。これまた、「あっぱれ」なことではないか。

世界には外来文化の流入によって、自らの言語を失ったか、失いかけている国が少なくない。最大の原因は新概念を自国語に転換できなかったからである。母国語では世界に追いつかないのだ。母国語で最新文明を学ぶことができなくなれば、解決策としてはいっそ言語を転換するか、留学する以外に道はなくなる。

その点、「日本語」というのは実にたいしたものだ。むろん、翻訳しようとて翻訳することが不可能な領域というのはどんな言語間にも存在するだろう。しかし、母国語だけで世界中に存在するほとんどの概念を言い表わし得る国というのはごく僅かしかない。これは自分たちが思っている以上に大変な能力なのであり、その能力を身につけることができたのは、まさにこの国が大文明から遠く離れた「辺境」に位置していたからだという風に納得することができる。

アジア全体が西洋列強の侵食を受けつつあった時に、なぜ、我が国だけがそれを逃れる力を持つことができたのか。なぜ、「大文明」のほうがそこに飲み込まれ、「辺境国」のほうが、瞬く間に列強に対抗する力を持ち得たのか。それは、我々が「辺境」というハンディーを逆手にとる能力を有していたからだろう。それを「辺境力」と呼ぶのだとすれば、我々は今後とも下手に「中心」たらんと欲するよりは、むしろそこに開き直って、「偉大な辺境」を目指すべきではないのか。それが、この本を読んだ小生の感想である。

ここへきて、しばらくの間、惰眠を貪っていた「大文明」がようやくその眠りから醒め、猛烈な勢いで勃興しつつある。それはそれで結構なことだが、だからと言って驚くことも臆することもない。我々は今後においてもいたずらに「中心」を争うのではなく、お家芸の「辺境力」を存分に発揮していけばいいのだ。そう考えたら、妙に頭の中がスッキリとした。
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